ああっ、やってしまった!右手の親指、人差し指、小指をぐいと広げて指を伸ばして、親指と人差し指で白鍵を、小指ではるか向こうの黒鍵を叩く、が、その瞬間、練習の時に聴き慣れたのとはまったく違う異音が響き僕の頭の中が真っ白になって手が止まる。
隣に座るぴろ子が小声で、「ダディ、ダディ~」と恨めしく口にしながら、ぴろ子は流れるように自分のパートを弾きこなしていく。
荘厳な教会のホール中央に置かれたグランドピアノに向いながら、なんとかぴろ子の奏でるメロディラインに乗ろうとするが、この中間部は練習時から鬼門で、一度落ちたら復帰できない難所。
どうして良いか分からずにオロオロしているうちに中間部は終わり、終局へむけての冒頭メロディが戻ってきた。ここで復帰。
あー、やってしまった。今はとにかくこのまま無事にぴろ子との連弾を終えるように集中。そして、ほどなくして演奏終了。
立ち上がって、客席に一礼するが、客席に目を向けたくない羞恥心と、失敗しても気にせずケロリとしていた方が良いという思いが交差して、どうして良いか分からない。
とは言え、やはり自分が失敗してしまった訳で穴があったら入りたい心境の方が格段に強い。そして、自分にはこんなもんだろうという諦めにも似た気持ちも沸いていた。
こうして、僕の、生まれて初めてのステージでのピアノ演奏は終了した。
言わずもがな、これはぴろ子のピアノ教室のピアノ発表会で、メインはぴろ子のピアノで僕はピアノの伴奏をする脇役にすぎないが、どういう訳か、僕はピアノを習ったことはないのに、ぴろ子のピアノ伴奏をすることになり、結構な時間をその練習に費やしてきたものの、満足いく結果にはならなかった。
ぴろ子は練習嫌いだったものの、一曲目のソロ演奏といい、二曲目の僕との連弾のどちらも堂々とした演奏を披露してくれた。これだけ立派な演奏してくれたのに、脇役が足を引っ張る形となり申し訳ない。
こうして、演奏終了後は自分の失敗演奏のことで頭がいっぱいであった。ところが、その翌日には少し違った思いが沸いてきた。多分、これは演奏会場で会った友人の言葉に影響を受けたのだと思う。
その友人にはぴろ子より年上の娘さんがおり、今回、彼女はショパンを見事に弾いていた。そして、彼は僕にこう言った。
「娘のピアノが上達するにつれて、相手にされなくなりました。」
彼もピアノを習った経験はなく、独学で楽しんでいて、僕とまったくシチュエーションは同じ。何人かの子供達は親御さんとピアノ連弾していて、彼も娘さんと連弾するのだろうと思っていたが、なぜしないのかと疑問に思っていたが、そういう理由だったのか。
今のぴろ子はピアノレッスンは続けたいが練習嫌いという僕からすると不思議な状態で、ピアノ技術向上曲線は極めて緩く、まだまだ
僕の方が上手だとの自負があるけれど、もし練習するようになったら、僕も相手にされなくなるのだろう。
そう思うと、今回の演奏会はぴろ子と連弾した最初で最後の演奏会になるのかもしれない。ひょっとすると、20年後に今回の連弾のビデオを見ながら、ウェディングドレスを身にまとったぴろ子を眺めることになるのだろうか。
- 参照(99)
- オリジナルを読む