海岸に飢えた人がいた場合、その人にすぐ食べられる魚をあげるべきなのか、魚の釣り方を教えるべきなのか、というたとえ話がありますよね。これって100対ゼロで絶対にこっちが正しいという問題ではないと思います。本当ににケースバイケースで、たとえ同じ人(たち)のケースであっても時間軸とともにベターな解は変わっていくのではないでしょうか。何しろこれはあくまでたとえ話であって、魚の釣り方というのは、実社会では各種の仕事のための知識やスキルを身につけることですから、普通だったら何年も学校に行くようなことで、1日とか1週間とか、いや1ヶ月でさえどうにかなるものではありません。その間食べるものがなかったら、知識や技術を身につける前に飢え死にしてしまうということになります。困っている人に魚を与えるのはその人のためにならないから、魚の釣り方を教えるべきだと主張される方には、ご自身で何かそういった行動を起こしていただきたいと思います。魚を与えるのはよくない、でも釣り方を教えることもできないから何もしない、というのでは建設的ではない、というかまったく何一つ解決に向かいません。私は、最終的に目指すべきは結果の平等ではなく、最初の機会の平等だと考えています。ただそこに至る過程においては、上にも書いたように、ケースバイケースで魚そのものも必要だし釣り方を教えることもまた必要だと思うし、その中で自分にできることを少しだけでもやろう、と思うわけです。ただ、昨日はみなさんもどうですかみたいなことを書いてしまいましたが、それはやはり余計なお世話なので、人にああしろこうしろみたいなことを言わないよう、今後は気をつけたいと思います。
投稿者: A-POT シリコンバレーのバ... 投稿日時: 2010年3月26日(金) 21:16- 参照(188)
- オリジナルを読む