既に2週間前の話になるが、サウスベイで沢山の用事を済ませた。木曜から土曜までの3日間で、東北大学USオフィスオープンに伴うフォーラム、JTPAの昇給ネゴセミナー、英語レッスン、東北大学学生のシリコンバレーツアーのパネルディスカッション、そして若い人たちとの語らい。そして日曜はサンフランシスコでダライ・ラマの講演会。全て「話す」と「聞く」のコンビネーションだ。JTPAのツアーと合わせると、パネリストとして自分の経験を話したのは3回になる。その時々で質問の内容が違うので話す内容が結構違ってはいる。違ってはいるのだが、自分はまず抽象度が低いレベルの話からスタートする傾向にあるのだという事に最近思い至った。本を読んでも教育番組を見ても、功成り名を遂げた人たちのメッセージは、昔から色々なところに溢れている。現代ではネット上でいくらでも見つかる。僕も小学生の頃からそういうものに触れる機会は多くあったし、感動したり感心したりもした。しかし、それで自分の何が変わったかというと、少なくとも成人するまではほとんど変わらなかった気がする。抽象レベルでの立派な話は確かに素晴らしかったのだが、その素晴らしい話を聞いた当時の自分が何をすれば良かったのか、全く分からなかったのだ。つまり、僕に欠けていたのは翻訳能力だったのだと思う。抽象的な心がけや基本ルールを、日々の自分の行動にどのように反映させられるか。それを知らない人と知ってる自分の違いはどうやったら出せるのか。どんなに感動する話を聞いても、その後の自分の行動に全く反映されないのならば、その話を聞かなかった場合と何の違いも無い。そういうわけで、現在パネリストとして話す機会があると、当時の自分でも十分理解できそうな、つまりアクションを起こすのに繋がりやすそうな話になりがちなのだと思う。人生全体に「成功」とラベルを付けられるような実績を持っているわけでもない、実用レベルでバタバタやっている僕が話すには丁度いいレベルなような気もするし。話を聞いてくれた人たちの中で「あの言葉で一歩を踏み出せた」という人が居ればいいなあと思うわけだ。Realization without action is not really realization.そういう自分は人の話を聞いた後に行動に結び付いているのか、それはまた次の機会に。
投稿者: admin 投稿日時: 2007年5月14日(月) 00:02- 参照(320)
- オリジナルを読む