両親は我が家から車で5分くらいのところにある
カリフォルニアの墓地に納骨されています
父の希望でした
そこには並木道があり花壇があり素敵なベンチがあり
まるで小さな公園のように明るい 綺麗な墓地です
実は両親のお墓には
もう一人の女性が納骨されているのです
1888年天草に生まれ
私がモンタナ州にホームステイをしていた年
1967年に79歳で亡くなったテルさんという方
テルさんは
結婚後間もなくご主人を亡くし
たった一人の乳飲み子も亡くしたばかりの頃
三男として生まれた父の乳母として雇われた方です
父の母親(祖母)は産後 産褥熱にかかり
生命に関わるような重篤な状態を乗り越えたものの
その後は産後うつ病になり
父には子への愛情が沸かず
父は3歳まで別宅でテルさんと住むようになりました
3歳の時にテルさんと一緒に
本屋に戻ったものの
3歳の子供が急に母親に懐くはずもありません
父にとってはテルさんが母親の存在でした
そんな子供を見て
祖母は父を可愛いと思うはずもなく
父は寂しいと言うより 時に激情的な母を怖がっていたとも
テルさんは私達(私と姉)に語るのでした
その後紆余曲折を経て
父が祖父の商いを継ぐようになってからは
大人同士の良識もあり
世間体もあり
母子関係が修復したのですが
それは一重に テルさんの控えめな心遣い
我慢強さ 賢明さによるものだったと思います
私が父を尊敬するところは
そういう悲しい幼年時代 青年時代の話や
自分の母親の悪口を一言も一度も父から聞いた事がないのです
私が4歳の頃記憶にあるのは
私といとこの絹子ちゃんを子守してくれたテルさんです
私達7人の孫達はテルさんを小母さんと呼んでいました
その頃 子守が3人で交代で私達をみてくれたのですが
何も事情を知らない私と絹子ちゃんは
テルさんより 若いKさんの方がいいと言った事がありました
当時テルさんは62歳になっていました
1966年 モンタナ州に旅立つ日
テルさんは そんなに遠くまで行かなくてもいいのにと言いながらも見送ってくれました
翌年1967年の7月 私はモンタナ州で約1年のホームステイを終えて
鹿児島に帰って来た日
その年の5月にテルさんが亡くなったと母から初めて聞かされました
母は私が悲しまないように知らせなかったのです
その夜
私が寝ていると いつも一階の部屋で寝ていたテルさんが
私の部屋の障子を開けて
「Chiblitsちゃん! よ~帰ってきたね!」
とにこにこ顔で話しかけるのでした
その時以来 私は人の霊を信じるようになりました
テルさんは天草のご実家のお墓と
鹿児島の祖父母のお墓 2箇所に分骨されていましたが
父が入らないお墓にいても無意味と思った私は
テルさんの分骨をアメリカで納骨しても良いかと
父に尋ねたら
とても嬉しそうな顔をして
「そうしてくれると有難い」と言ったのです
父が亡くなる4ヶ月前でした
父が一度だけテルさんの話をした事がありました
太平洋戦争に出兵する時
駅には我が子に千人針を渡して別れを惜しむ大勢の家族の中に
父だけが二人きり
戦争に駅で見送ってくれたのは小母さんだけだったのだよ
自分が結婚し 子供を持ち 孫を持ち
今 テルさんの事を思うと 涙が出てくるのです
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