あの人は死んだはずなんだ。
1973年に私が南米へ移民する時に、彼はわざわざは奈良から東京の羽田飛行場まで見送りに来てくれた。見送りはほとんどが東京に住んでいる私の親戚ばかりだったのに、親戚でもなく、東京以外からの見送りはあの人だけだった。 あの人は私の商売上のお客さんで、私が絨毯、カーテン、家具をカタログで訪問販売をしていた時に知り合った商売上のお客さんだった。
大阪で、私は金がなかったから、店を持てず、お客さんからの電話を受け継いでくれる留守番電話会社を利用して、車1台で商売をしていた。 お客さんから留守番電話会社に電話があると、「男前のトクサンは今出かけて“ます、帰ってきたら、すぐに電話させます。」私は店の屋号を“男前のトクサン“’登録していた。今思い出すと懐かしい、変なおもろい屋号です。でも、名‘も、商売もお客さんに受けた。 いつも私はそこにはいないのです。毎日何回か電話をしてお客さんから電話があったかを聞くだけでした。留守番電話会社は店のないのない私みたいな商売人には安くて便利で、重宝でした。私が24、5歳の頃です。
彼は奈良県‘和郡山市にある私の実家の近くの大きな工場の課長さんでした。電話帳の広告で私の商売を見つけ、彼の会社にカーテンを売ったのが初めての取引だった。店もない車1台で必死に頑張って商売する私を気にいってくれて、お客さんを沢山紹介してくれた。
沖縄から集団就職で来て、会社の寮に住んでいる若い人たちが結婚すると、彼らの婚礼家具一式を全部私から買ってくれた。私にとっては大事な大事なお客さんだった。
「ようこんだけ簡単に注文を取ってくれるなあ」と、不思議に思うほど注文を取ってくれた。婚礼の家具は普通は婚約者同士が家具屋へ行って品定めして買うのが多いのですが、彼は私の家具のカタログだけで、決めさせてくる。私の取引していた大阪の家具屋の大将も「カタログだけで、婚礼家具一式をこんだけ仰山売ったのは“男前のトクサン”だけや」と言って驚いていた。彼は世話好きで、話をまとめるのが上手で、人を信用したら、とことん信用して、親切にしてくれました。雨漏りのする自分の家を建ててくれた大工さんさえも信用してまた人に紹介する人だった。
私はもちろん彼の家にも、カーテンも絨毯も、家具もいっぱい買ってもらった。カーテンの取り付けに、その頃まだ高校生だった私の妹のみち子も何回か連れて行った。私がパラグアイへ移民して彼と別れてからはもう、妹のみち子と付き合いはないと思っていました。ところが20年前に私の住んでいるアメリカにみち子から「あ の人が死んだ」とびっくりするような電話が来ました。確か彼は49歳だったと思う。私はすぐに、彼の嫁はんに電話をした。話していると、私がパラグアイへ移民してからもみち子と私の代わりにずーっと何十年も付き合っていたそうだ。信じられないことでした。
去年私が23年振りに日本に帰った時には彼の嫁はんが迎いに来てくれ、ごちそうしてくれた。 私から買った、カーテン、絨毯、家具を30数年の長い間大事に使っているのには驚いた。日焼けするカーテンが30年以上も使われているのを見たら、胸が熱くなった。家具はまだ光っていました。30数年前の「男前のトクサン」という絨毯カーテン家具屋さんの私がよみがえってきた。それだけではない。その奥さんは、「男前のトクサン」と印刷された赤い私の名刺まで見せてくれた。ほんまに涙が出るほど嬉しくなった。人をとことん信用する人は物持ちもええ。でもこれは私にモノを大事にする素晴らしさ、人を信用する素晴らしさを私に教えているようでもあった。
まだ、びっくりすることを妹から聞いた。高校生だった妹も今は結婚して、社会人になった息子と大学3年になっている息子がいる。なんと彼は「私が死んでからも、みち子の息子二人に、大人になるまで、ずーっと誕生日プレゼントをするように」と遺言状を残して49歳の若さで死んでいったのだそうです。きっと彼のおじいさんか、おばあさん、父親、母親の誰かもそんなことをしたに違いない。それを彼の嫁さんは彼の死後20年ずーっと守って、妹のみち子と今でも親戚みたいに付き合っているそうです。あの世からまでも何十年も自分の友達の妹の子供にプレゼントを贈りつづける人。
その人の名は“荒木比呂美”
彼こそ、学校の教科書に載る人だと私は思う。
by フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。
フリムン徳さんのエッセイを最後までお読みくださり、そしていつも沢山の応援を有難うございます。
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投稿者: カルフォルニアのばあさんブログ 投稿日時: 2012年1月10日(火) 11:13- 参照(144)
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