初めて良性発作性頭位眩暈症(BPPV)を経験したのは3年前。 それ以来軽いのが3回くらいありました。 これも悲しいかな老化現象の一つだそうです。 三半規管の中の細胞破片が中を浮遊してそれが壁に当たるので平衡感覚が一時的に狂ってしまうんですね。 目の焦点が合わないくらいにくらくらします。 運転中に出たらちょっと困るくらいです。 特徴は長くても10秒以上続く事はないです。 この細胞破片を三半規管から出してしまう理学療法が「エプリー法」です。 人によってはこのエプリー法で一回で治る方もおられるようです。 私も今回15回くらいはしていますけど未だ完治していません。 でも今朝した時角度が良かったのかかなりそれで改善しました。 車酔いの気分になるのでドラマミンを飲みましたが今日は3回も昼寝をしました! お蔭で吐き気は止まっています。
今日はブログお休みするつもりだったのですが丁度良い按配にフリムン徳さんが又エッセイを送ってくださったので今日も又フリムン徳さんからのお便りです。 フリムン徳さん、皆さんのコメントを読むのが楽しそうですよ。 今日のコメントはフリムン徳さん宛に書いてくださいね! あっ 最後の応援ぽっちもフリムン徳さんにね!! これはちょっとずるい?
「咲かせてやろう、つぼみ」 これはシアトルの北米報知新聞の新年文芸コンテストで1位に入賞したエッセイだそうです。
咲かせてやろう、つぼみ
シアトル空港の荷物受け取り場の沢山の人の目が、フリムン徳さんの孫に集中した。長椅子に座って3歳の孫と荷物を待っていた。退屈した孫はポケットから1つのキャンデイーを取り出して、包み紙を開いてそのキャンデイーを隣の見知らぬ白人のオバさんの口元に持って行った。そのオバさんはにこっと笑って自分の口に入れ、「サンキュー」と言って孫の頭をなでてくれた。孫は当たりを見渡した。ず―っと、向こうにごみ箱を見付けた。キャンデイーの包み紙を捨てにぺンギンのようによたよたと、ゴミ箱へ歩きはじめた。背伸びして、やっと包み紙をごみ箱に捨てた。孫がこちらを向いたとたんに、周りから拍手喝采がおきた。孫はまた、ペンギンのように両手で自分の両腿を叩いた。
1日でも早くシアトルへこの孫に会いに行きたかった。もうすぐ3歳になる長男の初孫が見たくてたまらん。その孫に会える日がやっときた。 待ちに待った日がやっときた。息子から飛行機の切符が送られてきた。シアトルへ行ける日だ。可愛い孫に会えるのだ。この日を子供の頃の遠足を待つように指を数えて待っていた。待ち遠しくてたまらなかった。言葉に出して待ち遠しいといえば、嫁はんに笑われると思い、口には出さなかったが、心の中では毎日口に出していた。子供みたいにうれしいことは口に出して喜ぶようになりたいと思う。孫ができる歳になったら、”武士は食わねど高楊枝”なんかいらん。思ったことはすべて口に出して喜びたい。
1歳の時に、息子夫婦がロサンゼルスからシアトルへ引っ越す途中に、1日だけ、泊まって行った。まだ歩けなかった。可愛くてしょうがなかった。あの柔らかい肌に触りたかった。傍にいたかった。1日中孫の傍をうろうろしていた。孫が気になってし方がない。こういうのを「目に入れてもいたくない」というのだろうか。 嫁はんが寝かしたまま、おしめを変えるところへ行って、チンチンを見ようとして、顔をむけたとたんに、水鉄砲でめがけられてうたれたように、勢いよく、口と鼻の穴の中に小便が飛び込んできた。そう塩辛くもないちょうどいい味がした。わが孫の小便は一味違う味だ。普通の塩辛い小便ではない、味の素の入った小便みたいだ。もっとかけてくれてもいいとも思った。この小便に私の血が混じっていると思うと味わい深い味がする。嫁はんに「そんなヘンな所にまともに顔を近ずけてを見るから、罰だ」と、 と言われた。
私にしてはヘンなところか、一番大事なところや。将来の上園田家の後継ぎを作る源や。その源を見ようとして何が悪い。その源は大人の源みたいに開いていた。つぼみではなかった。アメリカの医者は生まれてすぐに医者が開くのだと言う。どうも理由はわからん。息子が生まれた時の日系人の医者は自然のままがいいといって、そのまま自然な状態でつぼみのままにしてくれた。孫のつぼみは生まれてすぐアメリカ人の医者によって、開かれていた。孫の小さなつぼみが開いているのを見て、かわいらしくて一人前のつぼみのように偉大に見えた。それは立派な背広を着て、ネクタイを締めた小さな子供が大人のふるまいをしているようであった。
なんや、豊臣秀吉と徳川家康を思い出した。「咲してやろう、つぼみ。咲くまで待とう、つぼみ」。アメリカ人は豊臣秀吉で、日本人は徳川家康か。その孫が3歳になって、走りまわり、おじいちゃんよりも上手な英語で喋り始めている。電話で話していても、意味のわからんことを喋っているが、まともな英語の発音になっている。アメリカで生まれ育つ子はほんとの英語を喋る。娘と息子の時は日本語を習わそうと思って、私達は子供には日本語と島ユミタ〈喜界島の言葉〉ばかりを使った。
家で彼らは親には日本語と、時々、島ユミタで喋っていたが、友達とは英語ばかりだった。だから、英語については安心していた。ところがそれは少し勘違いだった。息子が小学校3年生か4年生の時、通知表に、発音の悪いところがあると書かれていた。ちょっとショックだった。その国の言葉を完璧に喋るのは非常に難しい。30年近くアメリカに住んでいる私たちは、夫婦で島ユミタで生活しているから、なかなか英語は上達しない。
英語は子供から習うのが一番早いとわかっていたが、日本語と島ユミタのハナサ〈恋しさ〉に負けて、家で英語も使わなかったのが失敗だった。もし英語が上手だったら、大工なんかにならないで、商売人になって、今ごろ大金持ちになっていたと思うが、もう遅い。「徳さん、そんな負け惜しみ言いなはんな」 という声が日本の友達から聞こえてくるみたいだ。たったの8日間だったけど、孫と一緒に英語を勉強した。帰りの飛行機に乗ったとたんにシアトル空港の荷物受け取り場で、ゴミ箱へごみを捨てに行く、よちとち歩きのペンギンのような孫の姿が頭の中に映った。
By フリムン徳さん
プリムン徳さんはエッセイ本「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を出版されています。
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