全然ランダムな話題なんだけど、Twitterを見ていてふと思い出したので。私は大学2年の時、ひと夏をヨーロッパで過ごしました。4週間イギリス南部のフォークストーンという港町でホームステイして英語学校に行き、その後はホームステイ先が一緒だったスイス人の女の子の実家に3日間お邪魔し、それから電車に乗ってオーストリアのザルツブルグに祖母を訪ね、ザルツブルグからロンドンに戻って2週間ダンスやバレエのサマークラスを受け、、という楽しい夏でした。ロンドンではロンドン大学の寮が夏の間観光客に開放されるので、そこに泊り、ヨーロッパ各地や中南米からの学生などと親しくなり、クラスの後はパブめぐりをしたり、今思うと二十歳の娘っ子がだいぶ色々冒険したなあと思います。その当時の友達とはフェースブックのお陰で旧交を最近温めており、これもまた楽しいのですがそれは又の機会に。ある週末、思い立ってマダム・タッソーのロウ人形館に行ってみた日、長い行列で私の前に並んでいたのはチャドルをかぶったお母さんを含むアラブ人の大家族でした。小さな子供もウヨウヨいたのですが、どうやら受付で「10人なら団体割引が利く」と言われたらしく、後ろにいた私に声をかけてきました。そりゃ貧しい学生ですから、喜んで便乗させてもらいました。1階の蝋人形、そして地下のこわーい拷問博物館を見た後、「どうせだからこの後ランチ一緒にしない?」といわれ、ありがたくご一緒させてもらうことにしました。この頃までにはそれぞれの子供の名前やら年を聞いて、けっこう仲良くなってましたから。地下鉄で15分ぐらい乗って、外に出ると、そこはアラブ人街、壁のあちこちにはアラビア語のグラフィティーが描かれていたり、道行く人々もアラブ系を多く見ました。フィッシュアンドチップスを買って、狭いアパートで一緒にランチを食べながら、彼らがサウジアラビアから一時的にこちらの親戚を頼ってたずねて来ていること、観光ビザで来ているけれど、仕事が見つかればこちらにそのまま滞在したいらしいことなどがわかりました。今思えば、80年代終わりのロンドンは不況で、彼らは仕事が見つからないままそのまま不法滞在を続けたのではないでしょうか。それでも彼らはとてもとても感じの良い人たちで、子供たちも行儀がよく、互いに住所を交換して別れました。それから日本に帰ってきて、この夏の思い出もあせてきた1年ほどたった頃、アフマド某(仮名)という人から絵葉書が舞い込みました。「こんな名前は覚えていないぞ」とくずかごに放り込む直前に、「自分はあなたがロンドンで世話になったアブドゥラー(仮名)のいとこだ、職探しで日本に来るから家に泊めてくれないか」といった内容が目にとまりました。うわあ!仰天です。確かにフィッシュアンドチップス、割り勘にしようといったけれど払わせてもらえなかった。だからといって、見ず知らずの私からしたら他人を、いきなり家に泊めるなんて、不可能ですよ!母とふたり暮らしのうちには親戚だって泊めたことが無いのに!フォークストーンでクラスが一緒になったUAEやイエメン出身の子達に、「アラブ人は情が厚いから互いにもてなしあうことを大切にするんだ」とは確かに聞いてはいたものの、これほどとは思いませんでした。英語学校でアラブ系の子達は、親日的で、日露対戦を持ち出して「イスラムのトルコを迫害していたロシアを破った日本人をみんな尊敬しているんだ」と語ってくれたものでしたが。ともあれアフマド氏にいきなり日本に来られては困りますから、うんうんうなりながらびんせんに丁寧に「あなたが泊り場所を確保したら、観光案内ぐらいはできるけれど、病気の母がいてうちに人を泊めることはできない(もっぱら嘘でもない)」と書いて返事をしました。その数週間後、ある日「今成田空港にいる、迎えに来てくれ」とアフマド氏からいきなり電話が来ました!手紙を送った旨説明したのですが、彼は明らかに電話口の向こうで不機嫌そうで、「日本に行ったら、俺たちの親友が面倒みてくれると言われていたのに」と最後までブツブツ言われました。ともあれものすごいアラブ訛りに四苦八苦しながら、事情を説明して、ホテルを探す方法と、リムジンバスに乗る方法を教えました。その電話以降彼が連絡してくることはありませんでした。その後もうアフマド氏ともアブドゥラーファミリーとも音信はありませんが、今でもアパートで食べた新聞に包まれ、油くさいフィッシュアンドチップスの匂いと、アフマド氏の不機嫌な声のトーンが脳裏に残っています。二十歳で知った、異文化交流の難しさの思い出です。
投稿者: みーぽんのカリフォルニアで社会科 投稿日時: 2010年3月19日(金) 11:52- 参照(188)
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