せんじつの JTPA の カンファレンス でも はなしに のぼったことだけれど、アメリカの はたらきかた と くらべて、にほんの はたらきかたは いじょうに せんしんろんてき で、とにかく むりにでも どりょくで かいけつしようとする けいこうがあり、それでいて きゅうよも すくなくて やってられない、という いけんが ある。ぼくも そう おもう。にほんの おおてメーカ きんむで ばしゃうまの ように はたらいて さくしゅされている エンジニアたちは、おなじ レベルの しごとを ふつうに ていじで やって、それでいて ばいほどの きゅうりょうを もらっている こっちの エンジニアの げんじつを しったほうが いい。でも、こっちだと くじごじ で はたらけるとか、そんなことは じつは たいした もんだい じゃあない。それに、たとえば スタートアップで ようきゅうされる しごとりょう というのは、アメリカ でも にほんでも まったく ちがいがない。ぼくは、きぎょうするために アメリカに きたけれど、その スタートアップ では、まいにち 12じ すぎまで はたらいていたし、てつやも しょっちゅうしたし、そんな せいかつを 4ねんくらい つづけた。じぶんで はじめた かいしゃだから というもの あるけれど、いっしょに はたらいてた れんちゅうも みんな、しぬほど はたらいていたし、そういう じきというか タイミング というのは あるし、スタートアップ なんて、そんなもんだ。ちなみに、りこんされなかったのは、ひとえに 老婆が ぼくを できあい しているからだ という りかいだけれど、あのときに ぼくを みすてないで いてくれたことの おんは いっしょうかけて かえしたいと おもっている。って、それは どうでもいいか。というわけで、しごとの りょうは、アメリカか にほんか という もんだいではない。しごとに よる。だから、こっちのほうが いいよ、というのは、すくない しごとで もっと かせるげるとか、そういうことじゃない。もんだいは、「しごと」の ゆうせんじゅんい だ。にほんでは「しごとだから」という じゅもんが、あらゆることの めんざいふ として つかわれている。「しごと」が すべてに ゆうせんする のだ。こどもとの やくそくだって、ゆうじんとの やくそくだって「しごとだから」といえば、なんでも ほごに できる。しごといがいの やくそくは ぜんぶ だ。じゅぎょうさんかん だって、しごとが はいったら いけなくても ぜんぜん しかたがないし、さいばんいんに しょうかんされても、サーバ かんりしてたら しかたがない。なんで こんなに しごとが いちばん だいじなんだろう。おかしいと きづかないのかね。きづいてるけど しかがないのかね。それは きづいてないってことと なにがちがうのかね。かぞく>ともだち>しゅみ>しごと、くらいの じゅんばんが バランス とれてると ぼくは おもうし、どうい してくれる ひとも おおいと おもうけれど、にほんでは、しごと>>>こえられない かべ>>>しゅみ>ともだち>>かぞく、くらい じゃないだろうか。ほんと、しごとだから、なんなんだろう。へいじつの ひるすぎに むすめの ようちえん の Dad's Day に さんかすることが、「しごとだから」という いみふめいな りゆうで できないなんて、ほんとうに くだらないし、そんな しゃかいは ほろんでよし。って おもわないのかな。おもわないから こうなんだろうね。

投稿者: ぼんやりと考えたこと 投稿日時: 2009年5月10日(日) 14:30