自分でいうのもナンですが、僕は結構涙もろい。映画やドラマ見ていても結構カンタンに涙が出てしまう。ナウシカは毎回見るたびに泣く(これは当たり前?)。かつては涙を我慢しようとしていたし、涙が出てきても人には見せないようにしていたけれど、最近では隠す必要もないかなって思ったりもしている。そんな自分は結婚式で泣くのかもな~と思っていたが、涙は出ませんでした。涙が出なかったと言うより、そんな感傷に浸る余裕はなかったってのが本音かな。でも、結婚式が終わった晩、ホテルの部屋の布団の中で泣いてしまった。単に涙がツゥと頬を伝わった、だけじゃなくて、鼻を啜りながら泣いてしまった。実は、結婚式の数日前から、夜の布団の中でひとりで泣くことがあった。当然、隣で寝ていた相方は、僕の泣きじゃくる嗚咽で目を覚ます。そして、心配そうに「どうしたの?」と聞いてきた。お嫁に行くならまだしも、今回は嫁を貰ったわけで、何ら悲しくなることなんてないのにね。自分でも最初は良く分からなかった。でもね、いろいろ考えているうちに分かってきたこと。僕の父は、僕の大学選択や職業選択の際に、基本的に何も口出ししなかった。自分の好きなようにやらせてくれた。これって多分、うちの祖父が厳しかったからなんだろうなと思う。祖父は僕が1歳の頃に亡くなっているから記憶は全くないのだけれど、ウチは代々、職人の家系で、ウチの祖父が3代目、父が4代目だったそうだ。僕が生まれたときは5代目誕生と、祖父は大喜びしたらしい。祖父は、父が4代目を継ぐことが当然と考えていたため、父が中学を卒業すると家業を手伝うように命じた。一応高校は定時制を出たけれど、それ以上に勉強することは出来なかった。祖父は、その当時、弟子を20人くらい住み込ませて仕事をしていたそうで、かなり厳しい人だったようだ。その反動もあってか、父は僕の進路には何も言わなかった。父の仕事とは全く別な道を進んだので、家業も父までの4代で途絶える。高校を卒業した僕は、地方の大学に入る。当然、自宅からは通えない。独り暮らしがはじまる。それまでの18年間、家族と住んだ家を離れる日がやってきた。父は僕の荷物を車に乗せて引越しを手伝ってくれた。延々、長野県は松本の下宿先まで荷物を運んでくれた。荷物を車から降ろすまではすべてが普通だった。いつもと同じ会話がなされていた。なのに、すべての荷が降ろされ引越しが完了すると、父は僕に背を向け、そそくさと車に戻り、車に乗り込むと「それじゃ、帰るな」と一言。顔も見せずに、下を向いたまま、車を出してしまった。僕は「ありがとう」を言う暇もなかった。父の発した一言は震えていたようだった。きっと、泣きたいのを我慢していたのだろうと思う。あれから、また18年が経った。まだ言えていない「ありがとう」を父に言わなくちゃと思うと、涙がこぼれる。僕の母は、結婚してから、ずっと専業主婦をやっていた。僕には妹と弟がいて、僕と一番下の弟は4歳違い。つまり、兄弟3人が全員大学生になる可能性があった。もし、3人全員が大学生になると父の稼ぎだけでは心もとない。そう感じた母は、ある時、奮起する。もともと、勉強が好きだと言っていただけあって、看護学校に入ったのだ。他の生徒は、皆、高校を卒業したばかりの若い子たち。そこに、その若い子たちの母親ほどの年齢のおばさん生徒。でも、ちゃんと母は卒業して、看護婦となり、生計を支えてくれた。その後、勤めた病院では、介護福祉の資格まで取って、その病院唯一の介護福祉士としても働いていたようだ。母は今でも忙しく介護の仕事をしている。新たに自分で介護の施設を開くなんてことまでしてしまったから、夜勤をすることも多々ある。母にも感謝している。自分の結婚を一つの転機と捕えて、この機会に「ありがとう」を言わなくちゃと思う。でも、この「ありがとう」は結婚とは関係ないのも確か。いつ言ったって良いものだよな…。 でもなー、いま言わないと、墓前で悔いることになるのかも知れないとも思ったり(縁起でもないことだけど)。そんなことを考えていると、自然と涙がこぼれてしまう。ハートの風船の中にバラ会社の同僚らから送られてきた花束。ハート形の風船の中にはバラの花があって、見栄えも鮮やか。背景は松島。

投稿者: Franklin@Filbert 投稿日時: 2008年2月26日(火) 09:35