木曜日から用事で再びサンタローザに住む息子の所に行っていました。サンタローザ市のファウンテングルーブという区域に息子の家はあるのですが、ここに来る度にもの悲しい気持ちになります。昔ここに住んでいた鹿児島藩士、長沢鼎(ながさわ・かなえ 1852~1934年)の事を思うからです。薩摩藩が幕府に内緒でイギリスに送った留学生の中で長沢鼎(ながさわ・かなえ)は最少年者でした。たったの13歳の時です。下の写真はイギリスに着いた直後の留学生一行ですが、右下の小学生の様な幼い子供が当時の長沢鼎です。藩の命令とは言え、こんなに幼い子供を異国に送る親の気持ちはどうだったのでしょう。勿論本人も。大3年後に幕府は倒れ、明治維新が始り、大人の留学生達は帰国しますが、当時16歳だった長沢氏はアメリカ人宗教家トーマス・レイク・ハリスと運命的な出会いをし、アメリカに渡り、カルフォルニア州サンタローザでユートピア建設に参加する事になります。
中そこで長沢氏はワイン作りに携わり、2,500エーカー(1011万平方メートル)の広大な土地を所有してヨーロッパにも輸出する程のアメリカ全土でも屈指のワイナリーを作り上げ、カルフォルニアワインの土台を築き、大成功を収めます。
大ここで今「Nagasawa」の名前でワインが売られています。独身を通した長沢氏は後継者に鹿児島から甥夫婦を呼び、やがて女子(エイミー)と男子(Kosuke)が生まれ、死後のワイナリーはKosukeに残すように遺言を残しますが、外国人土地法(Alien Land Law)が成立し、ワイナリーをKosukeに残す事が難しくなりました。
大アメリカで生まれた姪の子供達不動産を譲れないと悟った長沢氏は弁護士Wallace Wareに全不動産を清算し、現金は自分の身内で分けるように遺言を残します。
大結果サンタローザ商工会議所が85エーカーの土地を買い取り、翌年1936年Errol Macboyleが残りの1768エーカーを買い取りました。ところが翌年の1937年、Kosuke達は突然立ち退きを言い渡されます。持てる物だけを持ってとりあえず友人の家に身を寄せました。全土地売却で118,050ドルの現金になりましたが、その中から66,010ドルは弁護士とお葬式代。そして更に遺言に書かれていたとして、25,000ドルが弁護士Wareに支払われました。そして何故か遺言検認の法廷は更にWareにお金が行くように決定します。Kosukeは返還を要求しますが却下され、結果、残金、たった3,500ドルが長沢氏の身内で分配される事になりました。Kosukeに残ったお金は一軒の家が買えた金額なのでしょうか?更に10年後には太平洋戦争勃発。日系人の不動産、持ち物は二束三文でアメリカ人に取られる事になります。Kosukeも戦争中はアーカンサスのRohwer強制収容所に収容されていました。今年の夏、長沢氏がワインを作っていた葡萄園のファウンテングルーブには彼の功績を記念して、「長沢公園 Nagasawa Park」がオープンしました。人種差別、戦争の下で過酷な事をしたアメリカ人の償いの気持ちの表れでしょうか。33エーカーの土地が75年振りで「長沢」の名前で返されたのです。
大生憎今日は雨。長沢公園の開会式に出席したKosuke Ijichi氏(88歳)が呟いた一言が私の頭から離れません。
現在のAmyさんとKosukeさん「本当はここは私達の土地だったんだ」長沢氏が汗水流して築き上げた葡萄園で、私の息子は結婚式を挙げ、そして彼の土地に住んでいるのです。この事実は鹿児島の郷土史を書いていらっしゃるブログ友、雪虫の伝説さんの2006年12月2日のエントリーで初めて知りました。それ以来私は息子の家に来るとここのワイナリーに立ち寄って、私と同じ鹿児島弁で話した長沢氏が18歳の時から生活して、馬で駆け巡ったと言う、このなだらかな丘を見て、当時の長沢鼎氏を想います。無料動画、動画配信、フラッシュ動画ストリーミングはムービーキャスターへAmyさんもKosukeさんも今はお幸せであると信じたいです。信じたい方、ぽちっ。今日も我が愚ブログを読んで下さり有難うございました。
殆どのインフォメーションは今のワイナリー、パラダイスリッジの1階に写真や手紙、手帳、着物などと一緒に展示されています。Paradise Ridge Winery4545 Thomas Lake Harris Dr.Santa Rosa, CA 95403United StatesPhone (707) 528-9463長沢鼎氏について(日本語)
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