お袋が亡くなって一年になる。母の病気のことは2003年の春、シリコンバレーで当時駐在員として働いていた頃に父から知らされた。黄疸症状が出たため、病院で精密検査をしたところ見つかったという。末期の胆のう癌。もって半年の命。医師によれば、もう手のほどこしようが無いという。リンパ節に転移しており、手術もできない。化学療法も効果が無いとのこと。つまり、何もできないのだという。あまりにもむごい宣告だった。昨日まで元気にしていた母が、もって半年というのは一体どういうことなんだ。父の判断で、母に病名は知らせたものの余命半年ということだけは伝えなかった。知らせを受け、母の見舞いの為すぐに病院にかけつけるべく一時帰国した。母は心なしか顔色に元気がなかった。それでもシャンとしていた。気丈だった。「いい、○○、絶対に直してみせるからね。私のことを良くみていなさいよ!癌なんかに負けないからね!」それから入退院を繰り返す母の闘病生活が始まった。仕事の関係上、なかなか母の見舞いに行けなかった。それでも会社の計らいもあり、日本への出張の機会を築いたり、休みを取得したりで5-6回は日本に戻り母を励ましに行った。ところがいつも母は僕を励ましてくれるのである。  ○○ちゃん(家内)は元気か。  仕事はうまくいってるのか。  そんなに休みをとったら会社に申し訳がない。  ご飯はちゃんと食べているのか。  健康診断はきちんと受けているのか。自分のことで精一杯のはずなのに、息子の心配をしている母。母はいつまでも母なんだなあとしみじみと思った。それからは、病気のことには触れずに、仕事の話や楽しい話題を極力するようにして母を安心させるようにした。  シリコンバレーでの仕事のこと。  お客様と一緒にバスケをしたりして、公私ともにお付き合いをさせて頂いていること。  週末に家内と行ったワイナリーでのピクニックの話。  こっちでの友達とのハウスパーティーの話。ある時母が、「これ何だか知ってる?」と聞いてきた。ブローチである。しかも古い。形もぼこぼこして綺麗ではない。どうしてこんな古いブローチを身につけているのか聞いてみたところ、これは○○が小学校の時に作ってくれたブローチでしょ、一番のお気に入りよ、という。目があつくなった。また、棚からたくさんの手紙を取り出して見せてくれた。どうしたの、これ?と聞くと、これはね、○○が高校生の時にくれた手紙でしょ、あ、これは大学進学の時のもので、こっちは社会人になった時にもらった手紙。今まで育ててくれてありがとう、生んでくれてありがとう、って書いてあるわよ、これはアメリカから送ってもらったメール。全部大事にとってるのよ、とのこと。恥ずかしいからやめてくれ、と思ったが、手紙をみている母はとても嬉しそうだった。母はもう一度アメリカに来たいと言った。2000年にサンノゼに遊びに来て以来、アメリカの地は踏んでいない。この時からデジカメ写真を本格的に撮るようになった。近所の写真、サンタクルーズの写真、サンフランシスコの写真、ワイナリーの写真、とにかく行く先々で写真を撮りまくった。家内は、母が家内にプレゼントしてくれたたくさんの洋服を毎回吟味して、「今日は海だからお母さんから頂いたこの洋服が似合うよね?」といって写真におさまっていた。入退院を繰り返す母の目となって僕が見たこと、感じたこと、家内と一緒に過ごしている僕達のアメリカを写真に収めるように努力した。父には当時最高のプリンターをプレゼントした。プリントアウトには紙とインクが必要の為、一時帰国する度にA4の紙とインクを大量に買い置きした。こっちで撮った写真はすぐにデータ送信し、翌日には父がA4でプリントアウトして病院にいる母に持っていって見せてくれた。母は僕の写真を楽しみにしてくれるようになった。医師が宣告した半年が経過した。母は元気だった。とても元気だった。びっくりするほど元気だった。入退院を繰り返していたものの、とても元気だった。このままもしかしたら。完治とまではいかないけれど、数年は楽しく過ごせるかもしれない、と思った。容態が思わしくなくなったのは確か2004年の正月頃だったと思う。入院してからなかなか退院できなくなった。仕事の都合もあり、2004年4月、やっと一時帰国できた。久しぶりに再会した母は体力的に弱まっており、化学療法のせいで髪も大分抜けていた。医師からは「病院からはもう退院できないでしょう。。。」と言われた。歩くのも大変だった。病室のベッドから起き上がるのも一苦労だった。それでも母の意識はしっかりしていた。きちんと話すことができた。母の病室からは病院の外に咲く一本の桜がよく見えた。父と相談し、母が休んでいるすきをみて、病室を小一時間ほど父と二人で抜け出した。病院の近くに桜並木があり、出店も出ているという。そこへ行き、父と桜の写真をたくさん撮った。出店のたこ焼きも父と二人で母の分まで食べた。写真を撮り終わるとすぐに家に戻り、プリントアウトして、母の元へと駆け足で戻った。母は、まるで花見をしているようだわ、ととても喜んでくれた。特に父がたこ焼きをほおばっている写真は、まるでたこのような口をしていて、あー、おかしい!と笑ってくれた。どうやらその写真が一番のお気に入りだったようだ。3泊という短い滞在も終わり、午前中の見舞いも済み、成田空港へ向かうこととなった。母は昨年のように起き上がってエレベーターまで見送ろうとしてくれた。大変だからいい、と言っても聞かない母。結局、エレベーターから下にまで降りてきてくれた。それだけでなく、病院のすぐ外まで出て、遠くの駐車場で車にのる僕を見送ってくれた。車が発進してもずっと手を振っている母。涙を抑え切れなかった。父に車を止めてもらうようにいった。車から降りて、病院の入り口まで走った。母はにこやかに笑っていた。  もう、いいから行ってらっしゃい、仕事頑張るのよ。飛行機乗り遅れるわよ。母を抱きしめた。癌のせいで体が衰弱し、とても小さかった。母はこんなに小さかったのか。点滴を支えにやっとの思いで立っていた。  またすぐに戻ってくるからね、待っててね。これが最後に母とじかに交わした言葉だった。2ヶ月後、母は息を引き取った。容態が悪化し、日本に一時帰国して看病していた時だった。余命6ヶ月といわれた母は、最期まで立派に闘病し、14ヶ月という期間、精一杯生きて生きて生き抜いた。享年61歳という若さだった。前向きに癌と闘い続けた母から、最後のLessonを教わった。  ○○、人生、最後まで前向きに頑張りなさい!ちょうど転職と時期が重なったが、心配をかけさせたくなかったので母には転職のことは一切話せなかった。そんな母に伝えたい。  俺はこっちで夢に向かって頑張ってるよ!

投稿者: シリコンバレー発 脱藩組の挑戦 投稿日時: 2005年7月19日(火) 20:59