元日からいきなり家族の用事でハワイ(ハワイ島です)に2週間も行っていたので、まだ脳内がややボケムードなのですが、タイトルの内容は各ブログの活発な議論で私もちょっぴり考えさせられていたのでした。(ちなみにこのエントリでは特定のブログに対して賛否を述べるのは遠慮させていただこうと思っています。)

私個人にとって、はじまりは「なんでリベラルが温暖化CO2主因説懐疑論にハマルのか」であったわけです。それから浅く考えたレベルでは、リベラルが一般的に確立された「権威」というもの、たとえば政府や大手メディアに反発心があることでしょう。日本の場合は政府主導で京都議定書にも参加しているし(バリで「今日の化石賞」をとったとはいえ)、またアル・ゴアの映画あたりからメディアが積極的にこの問題を取り上げるようになったせいもあるでしょう。

9.11テロ陰謀説に関しても、いわゆるリベラル・平和系のブロガーの間でも大きく割れているようですね。アメリカ政府関与説、イスラエル政府諜報機関説、アルカイダにCIAやMI6のスパイがいる説、百花繚乱の説にくみするブログもあれば、陰謀説否定に記事を割くブログもあり、興味深いところです。

「似非科学」については、ちょっと面白いな、と思った政治ブログが、ほかのエントリで「ケムトレイル」について熱心に書いていてドン引きしたのも最近のことでした。政治について的確に分析できる知性のある人が、本当かどうかどちらでもいいような瑣末な現象に、なぜここまでエネルギーを注ぎ込むように「ハマッて」しまうのか?

そんなことをつらつら考えているときに、ふと手にとったのが、10年以上前に買った新潮選書の「誰もが聖書を読むために」by鹿島春平太、という本でした。これが書かれた背景には、オウム真理教事件があり、いわゆる一流大学の学生までもが、なぜエセ宗教にはまって人をあやめるまでになったのか、という問題提起があります。

詳しくはとりあげませんが、その中で印象的だったのは、知性というのは多層構造になっていて、本来は形而上的知識が土台になり、その土台の上にほかの学問を構成する知識が来るという説明でした。この形而上的知識というとき、この本の著者はもっぱらキリスト教の知識、それも聖書の理解に重点を置くわけですが、それだけではなくギリシャ・ローマの古典でも、論語でも、ヴァガヴァッド・ギーターでも、風雪を経て輝く古典は知性の土台としては重要ではないかと思われます。

たまに日本人がヨーロッパのエスタブリッシュメントのいる集まりに出て、その中でギリシャ哲学者の警句やらラテン語のことわざなどがわからずに白黒した、などというエピソードが出てきますが、日本やアメリカでは実学が重視され、本来知性の土台となるべき宗教的、哲学的知識が薄い、この真空に、オウムやエセ科学、またアメリカの場合は原理主義キリスト教などが入り込むのでしょう。

この「形而上的知性の空白」が問題なのは、これがその日のおまんまを稼ぐので精一杯な人々にとってではなく、むしろ「エリート」である人々にとってではないかと思われます。ロシアのボルシェビキにしても、オサマ・ビン・ラディンをはじめとする豊かに育ったイスラム青年にしろ、むしろ生活に余裕がありながら、精神の貧困に悩む人々ほど過激思想や過激な宗教に走り、推し進めてしまうリーダーになっていくわけですから。

内容のあるブログを日々書くことができる人々の大部分は、基本的には衣食住には欠くことがなく、ネットにアクセスがあるという世界全体から見たら恵まれた人々だと思います。また知的好奇心も旺盛で、規制の権威には懐疑的でしょう。精神の自由を味わっている人々である、と言えるかもしれません。

その精神の自由に歯止めをかけるものはないのです。もしその思索がどんどん真に重要な問題からどんどん外れて、瑣末な問題や極端な思想に走り始めても、そこに歯止めをかけるのは、個人の知性の土台に当たる部分だけではないかと思います。

そこまで書いておいてオマエはどうなのか、と言われると大変痛いものがあります。わたしはたいへん無宗教的にリベラルに育てられたので、まさにこの部分が空白のまま育ち、大学に入った段階でキリスト教に出会い、すっと入ってしまった、という経緯があります。

私の関わった宗派はやや過激で、当時のリーダーは「自分たちの宗派だけが唯一のキリスト教で、自分たちが世界を伝道し尽くしたとき、キリストが再臨する」と言っていました。それを極端だと思わず受け入れ続けていた自分はおろかだと今は思います。

その後この宗派の内部崩壊を経て、聖書やほかの書物の読み直しを通して、私のものの考え方はすこしはバランスが取れてきたのではないかと思っています。

この形而上的精神の空白はリベラルだけのものではないでしょう。たまたまこの空白を埋めてくれたものが右よりの思想であれば、国家主義&神道系になるかもしれませんし、テレビの占い師や心霊番組にハマルのも同じでしょう。ただ、リベラルがハマルのは、一見知的に見える論議のなされるようなトピックかもしれません。

実はわたしは9.11陰謀説などを全く無視しているわけではなく、けっこう面白がって陰謀論系のブログも読んでいるほうだと思います。ただ、アルカイダ単独の犯行であったとしても、米軍主導のアフガン侵攻やイラク戦争が正当化されるわけでは全くありません。陰謀論に組しなくても現政権の非道さは誰の目にも明らかな行動や公開されている文書から十分にわかることです。

ブログの良いところは、大手メディアに載らない情報も目にできること、その玉石混交ぶりだと思います。だから私はうわさや陰謀論を語るブログを否定しません。自分の信念に純粋に熱心なひとほど、他人の細かい欠点が気になって批判せずにはいられないのでしょう。そうしてリベラルのブログ界が内部分裂してしまうのはもったいない気がします。

学ぶべきことは学び、アレっと思うような内容には片目をつぶり、社会の問題の本質からそれないように思索を深めて生きたいと思っている今日この頃なのです。

投稿者: みーぽんのカリフォルニアで社会科 投稿日時: 2008年1月22日(火) 13:32