その老人と初めて会ったのは、寿司トミを開店した最初の秋だった。某日系新聞社のマウンテンビュー支局長と名乗るこの老人は、カウンターでビールを飲みながら、正月用の広告を取りたいと言う。

正直そんな余裕はないし、どうやって断ろうかと思案していると、「ところであんた、国はどこじゃ?」 と聞かれた。「熊本です。」 と言うと、「お~、わしも熊本じゃよ。熊本のどこじゃ?」「人吉です。」「わしは岡原じゃ、人中(人吉中学)出るまで人吉じゃよ。」「人中?ボクは人吉高校(旧人吉中学)ですよ、先輩じゃないですか?」「おー、そうか、後輩か、この歳で同じ中学の後輩に会うとは縁だ。大事にせんとなあ。じゃあ、ここにサインしてくれ。」

緒方さんとの付き合いはこうして始まった。

高齢なのに会話が弾む。記憶力がよく昔の話を聞いても面白い。店の女の子をよくからかうが、この語り口も絶妙だ。女性の話題を振ると、的確な回答が極めてシンプルに口をつく。

ある日緒方さんの家を訪ねると、庭(菜園)で水を撒いている。横に立ち、話し始めたのだが、この水撒きがいっこうに終わらない。「緒方さん、こんなにたくさん水をあげるんですか?」「水撒きは大事じゃよ。これは男の仕事なんじゃ。女にやらせると、バシャバシャ一度にかけてすぐ終わる。これじゃだめなんじゃ。女の気持ちになって水をかけてやらにゃいかん。時間をかけてゆっくり、まんべんなくやるんじゃ。」「え?女の水撒きはだめなんでしょ? どうして女の気持ちになって撒かなければいけないんですか?」「畑は女じゃろ。女にバシャバシャ水かけてみろ? 喜ぶか? 面倒でも手順は踏まんといかん。すみずみまでゆっくりとなあ。」

昼でも夜でも、店に来るとまずビール。つまみを少し取り、酒に変わると寿司をつまむ。好きなものを少しだけ。必ず呑みながら食べる。この緒方さんがなにも食べず、飲まなくなったのは、3月の初旬だ。なにを届けても食べない。一度病院にいるとき、「緒方さん、ビール飲ませてあげようか?」 と聞いたら、「もういいんじゃ。」 と言われた。

昨日亡くなるまでのほぼ2ヶ月、口にしていたのはスプライトだけだという。なにを持っていっても口にしないので、一度は絵を持っていったことがある。シゲチャンが書いてくれた人吉の風景画だ。面倒くさげに絵を眺めた緒方さんだったが、突然記憶が甦ったのか、昔のことを的確に話し出した。 鉄橋 2012.jpg

「そうじゃ、人中まで汽車で通ったんじゃ。そうそう、この川に沿って走り、この鉄橋を渡るんじゃ。鉄橋の先は城跡じゃな。この鉄橋を渡ると駅があって、そこから歩いて学校まで行ったんじゃ。」

この2ヶ月間のまどろみの中で、もしこの絵を見て緒方さんが故郷の風景を思い起こしてくれてたとしたらうれしいなあ。

1918年 大正7年 生まれ 享年94歳 合掌

投稿者: 寿司豊味ととろぐ Sushitomi 投稿日時: 2012年5月13日(日) 00:40