日本では小沢党首への「国策捜査」が話題を提供し続けていますね。検察による「恣意的な捜査」といえば、わたしが思いつくのはウォール街に対して厳しい規制論者だったエリオット・スピッツァーNY知事が売春スキャンダルで辞任に追い込まれた事件でしょうか。権力にあるものが、FBIであれ、検察であれ「犯罪捜査」を恣意的に行うのは同じなのだな、という思いです。わたしが日本を見ていて感じるのは、「反・非自民」のリーダーとして、もっとも旧自民党的な、農水・土建に支持層があり、田中角栄の流れを汲む小沢一郎を掲げるしか選択肢がないのか、もっと広範な市民を代弁するリーダーが育っていないのはなぜか、ということです。そしてその理由の第一は、日本の学生が「全学連」への忌避感からなのか、世界一「非政治的」であり、学生が政党にリクルートされ、リーダーシップを育てられていくという、世界中でおこなわれていることが日本で起こっていないからだと思います。さて本題ですが、最近「転向」して話題になっている中谷巌教授が、1960年代にアメリカに留学した際に、郊外の大きな一戸建ての豊かな生活に圧倒されて、アメリカかぶれした、と述懐していた「アメリカの郊外(サバービア)」について今日はちょっぴり書いてみようと思います。「60年代にアメリカに留学していた」っていうのは曲者ですね。中谷巌とか野口悠紀雄とか、「構造改革」推進論者のゆりかごであったということでしょうね。彼らを虜にしたアメリカの郊外型の生活というのは皮肉なことに、「構造改革」の正反対で、第二次大戦以降、税金によって補助された、帰還兵援護法をはじめとした「持ち家推進政策」により広まったものです。わたしがサンタクルーズで1年半住んだ貸家も、50年代初めに建てられた家で、まさにこの時代に建てられた建売住宅の典型的な家です。同じとおりにほぼ同じ間取りの家が4軒並んでいます。2ベッドルームに広々としたキッチン、ダイニングルーム、そして暖炉のあるリビングルーム。広いリビングはすてきですが、夜中に家族が一部屋に集まっているときも家中をセントラルヒーティングで暖めているのはなんともったいないことか、と思いました。(その後いまは夫の実家に転居しましたが。)日本だとマンションを購入する資金がない夫婦は、賃貸でマンションに住む、貸家に住む、アパートに住む、、とさまざまなレベルを選ぶことになると思いますが、サンタクルーズに関していうと、「庭付き一戸建て」か「庭付き2階建て集合住宅(コンドー)」に住むか、低収入層は「トレーラーパーク」に住むか、という選択になります。日本と比べると、あんまり中間の「小さめの集合住宅」は選択肢がありません。「トレーラーパーク」とはじめて聞いたときは、「キャンプカーに住むひとの駐車場のようなものかな」と思っていたのですが、違いました。トレーラー、というより日本でいう「プレハブ」が近いような感じがします。「トレーラーパーク」に住んでいる、という響きは、「アパート住まい」よりずっと貧しさが響いてくる感じです。中に入ってみれば、日本のふつうの2DKのアパートなんかよりはずーっと広くて、80平米ぐらいはふつうにある感じなのですが。でもアメリカのテレビドラマや映画では、貧しい人たちもだいたい一戸建てに住んでいて、トレーラーパークの生活が描かれることはめったにありません。低所得者層も無理して一戸建てに住みたいと思わせる強い文化的プレッシャーがあるのです。1980年代から米国が「小さな政府」を志向するなかで、住宅購入に関しては「ファニー・メーFannie Mae」「フレディー・マック Freddie Mac」といった政府系住宅金融会社を通して、低金利のローンが提供され続けてきました。それと同時に、ビッグ3は電車やバスによる公共交通機関を買収によりどんどん阻む一方で、やはり低利子のローンを車の購入の際に提供し、一人一台自動車を持つ社会を作り上げました。そして不動産開発業者はどんどん新興住宅地を開発し続け、それが一巡すると、本来なら住宅ローンを組めないような層にもサブプライムローンが拡大されていったのですね。ところでこの夢の郊外生活が実はまがいものの幸福だ、ということは「アメリカン・ビューティー」、「ステップフォードワイブス」といった映画で描かれるとおり、実は多くのアメリカ人が深層では気づいていることだと思います。苦労してローンを組んでも、もはや50,60年代とは違って夫一人の収入ではローンを払えない。妻も働きに出れば子供に割く時間や夫婦の時間が減ってゆく。それでもローンを払い続けることができれば運が良いほうで、この景気の中、夫婦のどちらか、もしくは両方が病気になったり失業しないとは限らない、、、。現在のアメリカの経済危機は郊外に住む、という夢を徐々に侵食しているわけですが、そもそもアメリカの「郊外」というものが成立したのは安価な石油が手に入る、という前提のもとでしかありません。「エコロジカルフットプリント」によればアメリカ的なライフスタイルを世界中の人がしたら、地球が5個あっても足りないそうです。フリードマンの「Hot, Flat, and Crowded」は温暖化の厳しい現実をつきつける一方で、「世界中で中流層が勃興し、アメリカ人的なライフスタイルを求め始めていることは問題だ」と主張しています。しかしこの本を半ばまで読み進めた時点で、いかにアメリカの郊外というものが、世界でも例をみない特殊な事情によるものかということには言及がされていないように思います。広い未開発の土地、政府による持ち家推進政策、そしてビッグ3の政治力で公共交通機関が発達しなかったことです。中国人もインド人も自家用車を求め、エアコンや冷蔵庫を必要とするでしょう。でも、世界の中で突出したエネルギーを必要とする、車での長距離通勤と大きな庭付きの一戸建ての生活は、アメリカ以外のどこでも同じように実現されることは決してないでしょう。これから国の政策を長期的な視点で、言い換えれば「サステイナブル」な視点で立案する立場にある人間は、どこの国であっても、アメリカを反面教師にするでしょうから。

投稿者: みーぽんのカリフォルニアで社会科 投稿日時: 2009年3月8日(日) 22:29