僕が通っていた小学校にはいわゆる「特殊学級」という、児童の知能の発達度合いに応じたクラスが併設されていた。「普通学級」は各学年6クラスまであったのだが、「特殊学級」は7くみ、8くみと呼ばれていて、それぞれ1-3年生用と4-6年生用のクラスだった。僕が小学3年生の時のクラスの体育の授業と運動会に、特殊学級から同い年の児童が2人参加することになったので、サッカーやドッジボールを一緒にやっていた。当時の僕の目から見ても明らかに動作のスピードや身のこなしが違っていて、思い切って言えば「浮いていた」わけだけど、彼らは楽しそうにボールを追いかけていた。ある日、ドッジボールの先行を決めるためのジャンプボールをやるとき、先生が「この2人でジャンプボールしよう」と言って、特殊学級の2人がジャンプボールをした。A君は「ボーン」と言いながら落ちてきたボールを叩いたが、僕らのチームのB君はボールを見あげたまま動かなかった。タイミングが取れなかったような感じだった。とにかくそれでゲームが始まり、楽しくドッジボールをして、僕らのチームが負け、教室に帰る途中。級友が僕に言った。「あー、Bにはやんだぐなるわー。全然ジャンプしねえでボール取られで、ずっとニヤニヤ笑ってんだおん」少し驚くと同時に、ふと思いを巡らせた。A君、B君は皆と同じように一緒に遊んでいると思っている。しかし、周りの人たちからは浮いて見えていて、不満を持って見ている人もいる。でも、本人たちは楽しく一緒に遊んでいるだけだ。気付いていない。おそらく気付くことが出来ないのだろう。本当は気付いていたかもしれないけれど、当時の僕には気づいていないようにしか見えなかった。そういうのはどんな気持ちなんだろう…と思いを巡らして、ふと気がついた。僕は皆と同じように一緒に遊んでいると思っている。しかし、周りの人たちからは明らかに浮いていて、自分だけが気付いていないことも有り得るのではないか?周りの人は「仕方ないなあ」と思いながら相手してくれているとしたら?実は、「彼らの気持ち」は、自分が皆と遊んでいるときの気持ちと何も違わないんじゃないか?自分にもし気付く能力が無かったら、自分が浮いているか浮いていないか、「普通」かそうじゃないかなんて、知る方法が無いじゃないか。そして今に至るまで、僕は自分が「普通」であることを、はっきりと自分では証明できていない。まあ状況証拠っぽいものはたくさんあるのだけれど、心の底から信じるに足る「証拠」が有り得ないのが、この仮定の辛いところだ。「アルジャーノンに花束を」を読んで、そうそう、そのパターン有り得るよなと思ったり、「トゥルーマンショー」を観てそうそう、こういうパターンだって有り得ないと言えないよなと思ったり、「マトリックス」を観て以下略。友人に言うと大抵「そう考えたことは無かった」と言われるけど。歳を取るにつれてそういうことを考える機会は減っていたわけだが、外国に住むようになってから、今度は一定の根拠を持ってそういうことを考える機会が増えてしまった。自分以外全員が英語のネイティブスピーカーだったりすると明らかに浮いているわけだ。常に持つ疑問は、どれぐらい浮いているのか。気にならない程度か、イライラする程度か。仕事の場面ではどうか。対等に見られるようなアウトプットと雰囲気を持ってるか。新しい仕事の場面ではどうか。リーダーとしてはどうか。時々言い淀むところが頼りなく見えてないか。行動はどうか。とんでもない言動をしてないか。服装は。ジェスチャーは。どこまでも続きそうだ。何故こういう話を思い出したかというと、景気減退によるレイオフの予告が今日あったから。まだ自分の部署が影響されるわけではないが、今後売り上げが大きく下がったらもっと人を切るよ、などと予告されてしまっては、自分の立ち位置を考えざるを得ない。ここしばらくはかなり中途半端な位置に居るしなあ、ちょっとまずそうな雰囲気があるなあ、そう言えば周りからはどう見えてるんだろ、といろいろ考えてしまう今日この頃である。要対策。
投稿者: admin 投稿日時: 2008年12月21日(日) 00:01- 参照(247)
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